沿革
COMPANY TIME LINE
北海道釧路住込働き実習
高校を卒業後、北海道の釧路に住込働きの農業研修からスタートしました。同じ熊本から一年先輩の内田さんがいらして、当時、MTVでマイケルジャクソンのスリラーが流れている思い出が。高校時代には洋楽と言えばビートルズくらいでしたが、この北海道では内田さんの好みの洋楽がとても好きになりました。
最初は、朝5時に起きるのが大変で、2ヶ月もすると今度は朝起きて手が開かなくなって。これは確か、オーナーが鹿を撃って、それを内田さんがさばいている横で、僕は穴を掘る役でした。「秋の鹿は笛に寄る」そうで、10月も終わりになると寒すぎでした。
確かのこと時はマイナス30度くらいになった日で、外に出ると鼻が痛くなるくらいでした。
何しろ、先輩の内田さんから受ける影響が大きく、お給料を半年ほど貯めてニコンの一眼レフを買ったり、内田さんは、その頃牛の栄養管理をNECのPC-88と言うカセットテープ式記憶装置のパソコンでやっていらしたのですが、僕はどうも牛の餌の管理が苦手で、言われるがままに餌をやっておりました。
カナダへ
世界の酪農地帯と言えばカナダ。またまた住込働きのお話があり、翌月が成人式と言うタイミングでしたが、成人式はどこでもあるだろうと思い、1985年12月14日成田から旅立ちました。
カルチャーショックの連続(笑)成人式と言う習慣自体ありませんでした(笑)
まず、日本で普通と思ってたことが「普通」ではないとわかりました。酪農でしたが「休日」と言う概念がありました。
厳しいボスだったのですが、未来を予測するビジネススタイルを、また奥様からは目配りを忘れないということを学ばせていただきました。
これは僕にMasseyというニックネームをつけてくれた、隣のビーフファームのご夫婦で、本当によくして頂きました。
終盤になると、ビジネスの話題が多くなるようになりました。自分も会社を作りたいと思ったは、スティーブ・ジョブズがテレビ番組に出てたのを見てからでした。半分ほどしか意味はつかめませんでしがが「やらないで終わるより、やって失敗した方がましさ!」みたいなことを言っていたのはなんとなく理解でき、自分でも会社経営をやってみたいと漠然と思うように、その時考えた社名が SUNDAY FARM LTD. でした。
NECパソコン導入
88年6月、FAXを導入しました。
88年12月、この頃はまだバブルで、仔牛が生後1ヶ月ほどで50万円ほどしていて、父の牧場の中で自分でシェアしていた仔牛を売って、気になっていたパソコンを買いました。目的は経理を自分でやりたかったから。
日本のホルスタイコンテスト
91年11月に熊本で全日本ホルスタインコンテストがあり、カナダから連れて帰ったローダと言う牛から生まれたLeeが見事1等7席に入賞しました。カナダから帰るときにボス達と賭けをしたのですが、ギリギリなんとか約束を果たすことができました。出品にあたりお世話になった方々、団体の皆様には心からお礼を申し上げます。
熊本県の農業コンクールで新人賞をいただきました。アメリカ式と言うスタイルだったのですが、不思議とやっていた本人は、アメリカ・カナダに追いつけないことにジレンマを感じていた。
この年初めてNiftyと言うパソコン通信をスタート。電話代が月7万円に。
この90年に初めてアメリカのCompuServe経由でインターネットを見ました。国境ををあっさり超えてしまうことが刺激的でした。
バブル崩壊、そしてビジネスへ挑戦
カナダに行く時にお世話になった獣医さんから、会社を買いませんか?と言うお話をいただき、有限会社コングジャパンと言う会社を25万円で買収しました。
10月8日、社名をサンデーファームに変更登記。スティーブ・ジョブズの番組をカナダで見てから6年目で、自分の会社が出来ました。ただしバブル崩壊がまさに始まったその年でした。88年に買ったパソコンのワープロで書類を作り、変更登記の書類作りもやりました。パソコンが経理以外で初めて利益を出したような気がしました。
そして、前年から初めていたパソコン通信が劇的に変化しました。電話代を7万円から2000円にコスト削減。農業フォーラムで教えてもらったオートパイロットソフトNiftermを使い始める。
11月ワシントン州シアトルに渡米。スターバックスのビジネススタイルに感動。
Linuxのサーバー構築をスタート。
Windows95
当時は、まだインターネットという言葉はほとんど聞かれず、ロータス123や一太郎で文書を作ったりでした。後半からマイクロソフトのエクセル・ワードが登場してきました。
弊社では、MasseyがNifty-Serveの農業フォーラムのサブシステムオペをするなど、パソコン関連のビジネスに向けて舵を切ろうとしていた。
10月NHKで電子立国シリーズがスタートされ、パソコンビジネスの最前線が紹介された。
Windows98
Windows98で通信プロトコルのTCP/IPが標準搭載され、モデムさえあればインターネットに繋がる環境ができた。
サンデーファームでは、パソコン通信の影響でインターネットに接続することが普通にできていた事で、NTTから「インターネットに接続して欲しい」と言う依頼が来るようになった。
酪農をしながらではあるが、日中はNTTの紹介でインターネット用にソフトをセットアップして帰ると言う不思議なビジネスが出来ていた。
台風18号で牛舎が倒壊
熊本では不知火町松合地区で高潮被害が出た台風で、サンデーファーム牛舎が倒壊した。牛が半分亡くなった。片付けを終え、父達は酪農をしたいと言うことだったので、資金等の調整後、サンデーファームは完全にインターネットに舵を切った。
お金になりそうなことは何でもチャレンジしてみようと思った。
データ復旧業務が軌道に
お金になりそうなことが、意外とお金がかかり、収益が見込めなかった。
発想の転換機かと思い、以前から数件依頼がいきていたデータ復旧をYahooのカテゴリーに登録する申請をする。当時Yahooオークションは隆盛を極め、月間プレビュー世界一などを記録、Yahooのトップ画面の広告を見ていれば、景気の良い企業がわかった。
7月末、Yahooデータ復旧カテゴリーにサンデーファームが登録され、経営が黒字に転換。
Yahooオークション出店/閉店
2005年頃になるとGoogleをはじめとするクラウド上でメールを受信したり送信したりできるサービスが出てきて、パソコンの記憶装置に保存することが無くなる方向であると確信、新しいビジネス形態を求め試行錯誤。
Googleの企業用アカウント代理店(現GoogleWorkSpace)を申請。
田崎市場のクライアントからメロンを仕入れてオークションで販売。
この頃になると北海道で買ったNikonのフィルムカメラではなく、富士フィルムのS2Proと言うデジカメを使うようになっていて、画像の表現は群を抜いていて、オークションも好評だったのですが、なにしろ薄利多売。このビジネスモデルは弊社には向かないと半年で断念。
ただし薄利多売がメインの業種には絶大な効果があり、Yahooオークションのソフトウェアアドバイザーなどを数社行う。
Oracleデータベース開発
オークションのソフトウェアアドバイザーを行なっていた会社さんから、会員管理システムのお話が来て、東京まで見に行きました。ただし不思議だったのは東京の方に出来なくて、私たちに出来ることがあるのか?と言う、素朴な疑問でした。きっと色々事情があるのだろうと思い、よく銀行系などが使っているOracleデータベースを使うシステムを提案しました。
5月から開発をスタートして7月末に納品、その後、出荷等の委託作業も受けるようになり大忙しに。あまりの忙しさに事務所に泊まることが多く、気づけば朝状態で、週末は社員さんとの親睦、カラオケではいつもこの状態(笑)
個性的な方々が弊社にいらして、なかなか楽しめました。
リーマンショック
2007年からお受けした業務委託のお仕事、それから会員管理システムのメンテナンス等のお仕事を8月で全て、東京の会社さんに引き継ぎしました。20名程度までの社員さんの場合、コントロールも出来るのですが、それ以上になるとかなりストレスが強くなりましたので、一旦レイオフしました。
1年間、ほぼ全ての時間をシステム開発・メンテンスに注ぎ込みましたので、ちょっと休憩と思い。数名と一緒に20年前にやりたかったアメリカ横断に挑戦を。New York から San Francisco まで。
そして、帰国後リーマンショック。まさにリーマンショックでした。
石垣島のクライアントさま
酪農関連のお取引先から、石垣島のお客さまをご紹介いただきました。
今回のミッションは沖縄-石垣-与那国-熊本の4ヶ所のテレビ会議システムと、4ヶ所+東京・北海道を加えた6地点の売掛買掛システムでした。テレビ会議はPS3のカメラを使い、売掛買掛にはPCAのクラウドを使いました。私どもはクライアントの担当者さんに全て教えしまうやり方向で進めますので、遠隔地でも全く問題ないので、先方様にもとても喜んでいただけました。
社長さんから算命学と言う占い本を紹介頂いて、計算の方法が面倒で、その計算をiPadですぐに求められるようにとiPad用のアプリをAppStoreでリリースしました。
この年の10月Appleの創業者スティーブ・ジョブズが亡くなり、アメリカがとても恋しくなりました。
ダラス-サンフランシスコ
次の10年は、アプリで食べていけるようになろうと、ダラス近郊に会社を設立しました。一人でプログラムを書いていると、いつもやっぱり朝方に。半年後、自分の才能のなさが嫌になりました。
無謀にも、一人でアメリカに乗り込みましたが、もちろんそんなに甘いものではなくて、ただ、何とかアメリカで開発することのメリットを出したいと必死でしたが。
次に考えたことは、日本にいながら、サンフランシスコの事務所に通うようなイメージの会社が作れないかどうかでした。
海外から日本に来てもらえないか?
2014年には、AppleもWWDCと言う開発者会議を100%オンラインで視聴可能になり、Googleも同じような方向になってしまったので、日本にいても最新の情報を常に受け取れる環境が整って来ました。
2015年は、アメリカ進出の後始末の年でした。最後の決算、会社の閉鎖手続き、口座の閉鎖。現地に居て行うのは容易なのですが、日本国内にいて手続きを行うのはなかなか骨が折れるものでした。9月までには全ての手続きを完了し、さて一人になってゆっくり考える時間が作れたのは10月になってからでした。
巷では、民泊なるビジネスが少しずつ取り立たされていました。気になったのはAirbnbと言う会社で、サンフランシスコに本社を構えていました。
熊本地震発生
パソコンの修理や、ソフトの調整などの仕事はちょくちょくあったので、もう少し何か新しい種を蒔きたいと思い。3月、福岡でAirbnbの説明会があったので聞きに行きました。ちょうど桜の季節で大濠公園でのミーティング。不思議なミーティングでした。会社から説明するのではなく、ホストを行なっている人が今の現状やAirbnbの姿勢について話してくれるスタイル。
このAirbnbの社員ではない人を上手に利用して広げていくビジネスがとても不思議に思えました。ちょうど20年前にやっていたパソコン通信フォーラムみたいな乗り。それでいてそこにはお金が動いている。すごいなぁ〜と思いました。Webプラットフォームでこの仕組みを上手に作っていて、尚且つ社員でも無い人が、Airbnbについて熱く語る。でいてそれぞれが独立した事業者的な雰囲気。
ただし福岡だからできる技だなと思いました。地理的に韓国や中国の方が来やすい国際線が多数運行していて、韓国とは船での行き来も安価で出来る。
4月14日、16日熊本地震が発生しました。弊社は何とか災難を免れましたが、益城町木山の叔父のところは直撃、15日に応急処置に行ってブルーシートを被せたのですが、よく16日完全に倒壊。自然災害とは言えあまりの規模の大きさに事務所に帰ってきて、すぐに何か益城町の方に手を差し伸べるすべは無いかと、Airbnbのサイトを見たら、被災者向けに無料で宿泊施設の提供を買って出たオーナーと、被災者を結びつけようとしているではありませんか。
当時は人を泊めるのに何の許可も入りませんでしたから、すぐに事務所の部屋を登録して無料で貸し出しに提供しました。登録して1時間後、すぐに予約が入りました。「ウソ?」と言う感じでした。誰がこんんところに。と思い連絡を取ると、益城町にお住まいのご両親を、横浜のお嬢さんが部屋を貸して欲しいとのリクエストでした。「あぁ〜これもありなんだ」と思い。1週間犬を連れて来られた70代のご両親を泊めました。
パソコン関連の受発注及びソフトウェアの調整なども地震で少なくなりそうだったので、一旦、福岡で民泊のアパートを経営してみようかと思い6月からスタートしました。
福岡まで行くとなると、6件ほど物件を持たないと高速の移動などの経費が出ないため、最終的には7件で運用することにしました。当初お掃除の外注も考えたのですが、外注すると利益が極端に減り収支が合わなくなるのでとりあえず自分で何でもやってみることに。
民泊ブームも重なり、どうしてこんなに人が来るの?っと思うほどひっきりなしに。福岡だから出来た技です。
Ruby on Rails
福岡での民泊事業も何とか軌道に乗り、熊本の景気も少しずつ回復傾向にありました。また熊本でもAirbnbの説明会などが開かれ出しました。
私どもが一番注目したのはWebアプリとして見たAirbnbのシステムの強靭さでした。世界中でこれだけの人が予約をしていて、予約の重複が稀だったことです。2年間で2千件くらいの予約を受けて、ダブルブッキングが発生したことが2度ありました。AirbnbのプログラムはRuby on Railsと言う仕組みで動いているのですが、ホームページとスマホのアプリの融合がここまでリアルタイムに出来るようにした功績は、素敵なことでした。
福岡での民泊事業が軌道に乗れば乗るほど、プログラム開発の時間がなくなっていくことになりました。
福岡民泊事業からの撤退
2018年6月15日に施行された「住宅宿泊事業法(民泊新法)」で許可が無い賃貸物件での民泊が違法になり、サンデーファームの福岡での民泊事業は2年で終了しました。
元々、熊本地震で落ち込む地場の需要が戻るまでと思っていましたが、まさか2年とは。この年の8月からパソコンのソフトウェア開発。Appleのアプリ開発を再開しました。2011年にリリースしたiPad・iPhone占いアプリが意外と好評で、全世界のユーザーが1万人くらいになっていたので、これを機にiPhoneとandroidのアプリ開発に注力することとしました。
ただし、民泊と言うジャンルはアプリとの共存が出来るのではいかと思い、菊池保健所に2月から申請を行い、7月9日簡易宿泊施設の許可がおりました。
年末に8月からリニューアルを進めていた占いアプリ「UN4Tune」をリリース。
Only Code プロジェクト
昨年までは、画面のレイアウトなどをする時に、視覚的にレイアウトできる仕組みを利用していたのですが、お正月が過ぎた頃、ふと何気なく見た東大の大学生のブログにコードだけで画面を作るコーディングが書いてありました。書いてあったことはとてもシンプルで、YouTubeで見ながら書いたら、とても納得できたみたいな記事でした。
書かれているままに、実際にYouTubeを見ながらHello Worldから全て入力して作って行くと言うもの。英語は理解できるので、一日で数千行になりました。コードを見るだけで、どんな処理がされているとか、どんな画面になっているかなど、初めての体験で、もう何だか何でも書ける気がしました。今まで本を読んで進めていた何十倍ものスピードを獲得できました。何よりコードを読む力が一気に。YouTubeを作った人に本当に心から感謝しました。
この技法を、弊社のリクルートにも取り入れて、せっかくだからコードをGitHubに入れて、アメリカ・日本どちらにいてもコーディングできるスタイルに変更しました。バージョン管理は20年前に一度Linux上のサーバーにオープンソースを入れて失敗していたのでで、その経験が初めて生きました。
3月にはサブスクリプションを入れて、初めて有料のオプションがあるアプリをリリース。その後も概ね1週間に一度程度のアップデートを加えながら開発。
3月コロナが社会の動きを止めてしまう。
占いアプリUN4Tuneは、算命学と言うジャンルではトップとなる。
東京オリンピックの年
コロナ禍が世界の状況を一変しました。会社的には前年のOnly Code プロジェクトを今年も継続しまた。
ここ数年の弊社の開発スタイルは、アイデアをまずブレーンストーミングで探り、最悪のアプリシナリオを考えるシンプルなやり方。Only Code プロジェクトで開発者の国籍がバラけたことでそれぞれの言語圏の価値観がぶつかり合うような気がして、それが何とも心地良くなりました。
Android開発スタート
iPhoneアプリ開発が、少し落ち着いたことと、Android Studioバージョンが上がったことをきっかけにandroidプロジェクトを始動しました。
新たにドイツとセルビアの開発者を加えCodeベースで進める。開発言語はKotlinでComposeを使うスタイルで。
年末には開発中のバージョンをGoogle Playでリリース。
コロナ禍後の出口戦略を模索
iOS版のUN4Tuneからは、サブスクリプション収入が入り出すようになりました。数千円規模ですが、私どもの書いたコードが世界中の人の目に止まり、特に海外に赴任された方や、留学中の方々が多く使っていただき、寡聞にもサブスクリプションまで契約いただける。まさに夢のようなお仕事。20代の時に「30年後は世界中を飛び回るお仕事にしたい」と思っていたことが現実になっていることにとても感動しました。
一緒にコードを書いて教えてくれているのは、アメリカ、NewYork、SunFrancisco、ドイツ、セルビア、この田舎にいながらインターネットがいろんな個人や企業を結びつけているなんてなんて素敵なことなんだろうと思いました。
6月30日の入国制限解除後、少しづつ民泊の予約もAirbnbから入りだしたので、もしかしてと思い欲を出してBooking.comにも掲載してみました。AirbnbとBooking.comの方向性の違いがとてもよく理解できました。僕たちのところにはAirbnbが合っている気がして9月以降はAirbnbのみで運用。アメリカ・タイ・スリランカ・オーストラリア・中国・韓国etc... とたくさんの海外の方々が来てくれました。日本国内からは大学のサークルやコロナで就職後飲み会を出来なかった世代が来てくれたりで、サンデーファームが一気に賑やかになりました。
後半はiOS版UN4TuneにParty&Teamという機能を追加したいと思い9-11月の三ヶ月はコード漬けでした。今回は外部サーバーと同期する仕組みを取り入れての開発だったのでとても楽しめました。12月31日なんとかリリースすることが出来ました。
Apple Foundations Programに参加
年末リリースした新機能のPartyでしたが、一ヶ月で利用者ゼロの輝かしい失敗でスタートしました(笑)思い起こされるのは、あの苦しんだ三ヶ月。時代が少し早すぎたのかもとあっさり機能を削除しました。またしばらく考えます。
今年は4月末までにAndroid版をiOS版に近づけると言う目標を掲げながら、Apple Foundations Programに参加しました。5月以降ですが少し東京に行く機会が増えると楽しいなと思いつつ、AndroidとiOS版を今年度もアップデートさせていきます。
さて2023年、10年後に思い出した時に「2023年だったよね」と言う年度にしたいと思います。